金子兜太さんといとうせいこうさんが、中日新聞・東京新聞で今年の元旦から「平和俳句」のコーナーをはじめた。投稿される俳句の中から、毎日一句ずつ掲載している。
ファナティックな感じが出てしまうと平和俳句にはならないし、逆に平和ぼけ俳句でもだめだし、なかなか難しいが、日ごといい句が増えてきた感じがする。
平和とは一杯の飯初日の出 (1月1日)
枇杷の花戦後生まれのままで死ぬ (1月30日)
いくさせぬ国の誇りの初日かな (2月1日)
たんぽぽの種ほど生えよ平和の芽 (3月9日)
三月十日南無十万の火の柱 (3月10日)
今日もまた子どもの布団かけ直す (3月11日)
畑を打つ土中の虫に詫びながら (3月16日)
天の川戦の果てぬ星一つ (3月19日)
起き抜けの水を六腑に原爆忌 (3月22日)
しかし「平和俳句」なんていうものをやろう、という姿勢に、まず心を動かされる。ネガティブなことを言う人というのは、いつだっているし、なくならない。これは、そういうことを気にしているレベルとはまったく違う次元で行われている試みなのだ。
子規は「俳句は文学である」と言った。その意図とは異なるだろうが、この命題は自分なりにこのように理解している。俳句は文藝(=美的趣味)ですむようなものではなく、文学である。文学であるということは、つまり政治性があるということである。それはイデオロギッシュであるということではない。倫理の問題を含んでいるということである。
倫理の問題とは何かというと、これは「他者」に関わるということである。この「他者」とは何なのか。他者とは、目の前にいる人もそうだが、目の前にいない人も入る。例えば、死者もそうだし、未来の他者も入る。もっというと「自然」も「神」も他者である。
そう考えていくと、俳句は宗教に変わるような普遍的なものをもっていなければならないということがわかるだろう。それがなくなれば、すぐに俳句はスノビズムや暇つぶしとしての言葉遊びに堕落する。
さらに言えば、俳句は社会を変えうるような運動性(=結社性)をもっていなければならない。それがなくなれば、俳壇のような閉域で自足するか、空しい一人言に終わるほかないだろう。
だから「平和俳句」なる試みそのものが、実は優れて俳句的な行為なのだと思うのである。
リンク:中日新聞・東京新聞「平和俳句」
金子兜太さんといとうせいこうさんの「平和俳句」。早いものでもう10月ですが、ずっと読み続けています。さらに10句、追加で選ばせていただきました。
戦争を知ってる背中大根引く (4月5日)
大夕焼核の時代に生まれたる (4月6日)
一族の忌日同日原爆忌 (5月6日)
昼寝から覚めて平和が盗まれる (6月12日)
春筍や断じて戦争すべからず (7月2日)
毛髪と爪が父なり終戦日 (8月13日)
戦争の命日八月十五日 (8月14日)
桃ひとつ買って平和を祈りつゝ (9月5日)
戦せぬ小さき国のゆかしさよ (10月1日)
ほおずきに頭下げたる孫二歳 (10月18日)