金子兜太遺句集『百年』前編

古書で句集を買うと、たまに句の上に印の付いているものがありますが、これは前の読者が選をした跡です。どこか心を打つものがあった印です。この連載は、普段はプライベートな「選」をあえて誰かと共有してみようというものです。

そもそも選句にはいろんな段階があります。句会、投句欄、句集、アンソロジー、歳時記…。もちろん作句の段階で既に選んでいます。自選とは自分が他者になって選ぶのですから、選ぶということは基本的に他選なのです。だから、さまざまな他者に選ばれた句のみが遺ることになる。つまり、選ぶとは遺すということであり、同時に他一切を捨てるということなんですね。そう考えると選ぶことの重さに気づきます。量子コンピュータなどがますます進化する世界では、気づかなくなるような重さです。

選は創作である。有名な言葉ですが、これは、かの大悪人、高浜虚子の言葉です。 虚子は自身の選によるホトトギス雑詠欄に絶対の自信を持っていました。中世の勅撰和歌集にも匹敵するものを遺しているくらいの自負があったはずです。

選び抜かれたものは、歳時記に載ったり、アンソロジーに入ったりします。しかし、同じ俳句でも、有名な句ばかり載っている歳時記で読むのと、句集で読むのとで印象が異なる場合があります。どんな句と並んであるかでも印象は変わるからです。つまり、余白の大きさが違う。

さらに、句集にはこの作家にこんな句もあるのかという驚きもあります。どうしても作家は有名句のイメージに引っ張られることが多い。だから、本当は句集で読んでいただいたほうがいいのです。そして、ここでの選とどう違うかをみていただけたら、なおよいです。

また選句なので説明はしません。説明をすると、俳句は台無しです。鑑賞はおのおのしてください。邪魔をしない程度の言葉を添えることもありますが、主役は俳句です。

初回なので、前置きが長くなりました。次回からはさくさくいきます。落語の枕のようにはいきませんが、お楽しみに。

では、記念すべき第一回は、金子兜太さんの遺句集『百年』(朔出版)をとりあげます。遺句集から始めるというのもなんですが、今月の生誕百年のお祝いを兼ねて。句集には昨年二月、九十八才で亡くなるまでの最後の十年に遺した七三六句が収録されています。晩年というよりも、最晩年の句です。若き日は前衛の旗手と言われた金子兜太の最晩年です。人生すなわち俳句であった一人の男の姿がみえてきます。

地を叩くよう鴉鳴く夏だ
地を叩くよう/鴉鳴く/夏だ。

花片栗ゆつくり行けば智慧が出る
上五に片栗の花を持ってくる繊細さ。

鳥躍るわれも青嵐のなすまま
あをあらし、ではなく、せいらん。

濁声の旅人毛虫むくむくゆく
人と毛虫が同等に。
むくむくゆく。

玉虫も髪切虫も夢の奢り
夢とはかくも贅沢な。

夏山を人影移り生臭し
人間は生臭い。
気づかないようにしてるだけ。

去年今年生きもの我や尿瓶愛す
尿瓶詩人。

春の駅一人の声が馬鹿でかい
こんな時空の破れ目もある。

ふらここが亡妻の向こうで揺れている
見つめているんだな。
いつまでも。
「亡妻」と書いて、つま。

三月十日も三月十一日も鳥帰る
鳥にはひとごと、
人類のこと。

父も母も妻も秩父の春の土
秩父の。

雛祭隕石がびゆーんととんだ
宇宙観。

牛蛙と老人青大将を通す
どうぞどうぞ。

干柿に頭ぶつけてわれは生く
たまにおどける。

谷に猪眠たいときは眠るのです
いのししに不眠症はない。

生きることの見事さ郭公の山河
村越化石への追悼句。

茸狩る山を越えれば風の国
ナウシカの世界。

飢えしときは蝙蝠食えり生きてあり
戦時下、トラック島でのことか。
こうして今、生きてあり。

百に近き島影とあり餓死つづく
戦争は終わってない。

山の友冬眠もなくひた老いぬ
冬眠する生物をうらやむ。

後編へ続く

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