声上げて蚯蚓を呼べる蚯蚓かな 大谷弘至
聞こえないものを聞き、見えないものを見、そして言葉にできないものを言葉にする、それが俳句である。この句の眼目はまさにそこにあるのではなかろうか。蚯蚓はもちろん鳴かない。しかし、俳句ではその声を確かに聞くことができる。この...
聞こえないものを聞き、見えないものを見、そして言葉にできないものを言葉にする、それが俳句である。この句の眼目はまさにそこにあるのではなかろうか。蚯蚓はもちろん鳴かない。しかし、俳句ではその声を確かに聞くことができる。この...
無気味にしてユーモラスな貝の姿がありありと目に浮かぶ。蛤のような二枚貝であろうか。腹も腸さえもさらけ出してやってくるかのようで、どうもこの世のものではなさそうである。松瀬青々の〈貝寄せや愚かな貝も寄せてくる〉という句があ...
一茶の〈雪とけて村いつぱいの子どもかな〉と、金子兜太の〈曼珠沙華どれも腹出し秩父の子〉との間にあるような句である。戦時中の貧しき村の様子が目に浮かぶ。今も世界の至る所で、このような光景に出くわすはずだ。
卵の形状をあらわしただけの句ではないか。一読したときはそう思った。しかし「寒卵」という季語を中心によく読んでみると、それだけではないことに気づいた。食べ物の少ない冬の時期にあって、いただく卵の命はとりわけありがたい。下五...
昔々あるところに。こう始まる昔話を思わせる一句である。英語ではOnce upon a time。学者によれば、「この話は嘘だから信じなさんな」という宣言なのだそうだ。しかし、この句は必ずしも嘘とは言えない。この星に生命が...
生きるために死んだふりをする蜘蛛の子。死んだものは殺せない。この真理を前に死すれば、大人と子どもの違いどころか、人と蜘蛛の違いすら意味をなさない。子どもながらにして、生きることに真っすぐな姿に心を打たれる。