現存する漱石の俳句は二千五百句あまり。子規の俳句と比べるとその一割もありません。そのうち明治二八年から明治三三年までの約六年間に詠まれた句は千七百以上におよび、全体の七割を占めています。すなわち、漱石が松山中学校の英語教師となった年から、熊本第五高等学校へ転任し、そして英国ロンドンへ留学するため英語教師を辞するまでの間に集中しているのです。
数がこの時期に集中している理由は、漱石にとって俳句の修行時代であったからです。漱石はこの間、合計三五回も句稿を子規に送り、毎回五十前後の句を書きつけて添削指導を受けています(『漱石・子規往復書簡集』岩波文庫)。
そもそも岩波書店から『漱石俳句集』が刊行されるのは、漱石の死後(翌年)であり、自身の手によってまとめたものではありません。つまり、漱石自身が句集として完成させることはなかったわけです。だから、我々が読める漱石の俳句の多く、特にこの六年間の句は「習作」と言っていいのかもしれません。
例えば、明治二八年、漱石が松山中学校の英語教師となった頃の作に、こんな句があります。
不立文字梅咲く頃の禅坊主
不立文字(ふりゅうもんじ)とは、達磨大師による中国禅宗の教義。書かれた言葉はその時々いかようにも解釈できてしまい、真の悟りは言葉ではなく心によるということです。漢学に通じた漱石らしい言葉です。
子規はこの句の上五だけのこし、中七下五をそっくり書き換えました。
不立文字白梅一木咲きにけり
比べれば一目瞭然です。漱石の句は「不立文字」「梅」「禅坊主」という言葉は平坦に並んでいるだけであり、切れが弱い。子規は大胆に禅僧を消去し、「不立文字」と「梅」の取り合わせをはっきりさせました。
下五をしっかり切ったことで、上五の不立文字という教義はむきだしの岩のような存在感を持って屹立し、中七下五の梅は、今ここで咲いたかのように目の前に立ちあらわれる。さらに「白」という色と「一」という数によって具体性を持ち、はっきり目に見えてくる。添削の見本のような例です。
漱石が子規に書き送った句稿からは、このような痕跡をいくつも垣間見ることができます。句の添削の他にも、「陳腐」「捨ツベシ」「言ヒマワシワルシ」「古イ」「平凡」「イヤミ」「非俳句」「巧ナラントシテ拙也」など、きびしい評が書き込まれているのがわかります。
のちに、文豪と呼ばれ、国民的大作家となる漱石が地道な努力をしているわけです。驚きを感じる人も多いのではないでしょうか。
もう少し添削例を見てみます。
原句 冬籠り今年も無事で罷りある(明治二八年)
添削 冬籠り小猫も無事で罷りある
原句は報告で終わっています。子規の添削句は「子猫」に焦点を移すことで、奥行きが生まれています。あえて、自分ごとを奥に引っ込めたことで、距離が生まれたわけです。
原句 作らねど菊咲にけり活にけり(明治二九年)
添削 作らねど菊咲にけり折りにけり
原句の「活にけり」ではただ事ですが、「折りにけり」と言ったことで、菊の命のはかなさに気づかされた感じがします。
このように同じ形であっても言葉一つで句の広さや強さが変わるのが俳句です。おそらく漱石も添削を受けるたび、なぜそう直すのかを考えていったはずです。
漱石は熊本の第五高等学校へ赴任してからも、精力的に俳句創作に挑んでいき、子規の直しは急激に減っていきます。明治三〇年には子規の特選、並選の句がぐっと増えます。
そして、明治三一年には漱石は熊本の俳句結社紫溟吟社の主宰になるのです。このスピードはあきらかに才能を感じます。
その熊本時代の教え子である寺田寅彦のエッセイに「俳句とはレトリックのエッセンスである」という漱石の言葉が残されています。その言葉の裏には、こうした子規の添削指導があったはずです。もちろん、文学そのものの形式化を試みた(「文学論」)フォルマリストでもある漱石ですから、俳句も又少なからず形式主義的なとらえかたをしていたに違いありません。
しかしながら、漱石は俳句のすべてを形式に還元していたわけではありません。後述するように、あくまでも詠むべき時に詠むべき句を詠む、そこが一義的であって、むしろそのために身につけておく技術であったということができます。
漱石の残した句の多くが習作であったと言っても、それは不完全なものということではありません。むしろ「自己完結しない」ということにおいて、漱石の姿勢は一貫していたと言えるのです。
*参照:不立文字
*参照:岩波文庫『漱石・子規往復書簡集』