情け容赦のない現実を前にして、作者はこのように詠んだのだろう。
東日本大震災が起きた当時の感覚や気分は、すでにだいぶ薄れてしまっているが、この句を読んでかすかに甦ってくるものを感じる。
救いようのないものを目の当たりにしたとき、人は嘘でも何でもいいから、救いになりそうなものにすがりつきたくなる。しかし、すがりついてもどこかで救われないことに気づく。
救いはない。むしろ、その現実を受け入れることができたとき、人は救われる。
この句から、私はこの逆説を感じる。
俳句は笑いの文学といわれる。それは決して笑えればよい、楽しければよいということではない。嘆くほかないような現実を笑いに転じる文学である。
虚子は俳句を「極楽の文学」といったが、それはその裏側にどうしようもない地獄の現実を踏まえてはじめて極楽といえるのだ。
だから、笑えるだけの俳句は「文学」とはいえない。俳句は、不快を快に転じ、不安を勇気に転じ、絶望を希望に転じる、そうした力を宿したときはじめて「文学」となる。
この笑いは「大きな笑い」にはなりえない。なぜなら、誰にでもわかるものではないからだ。まさに「鬼の笑い」とは、そういうものではないだろうか。
われわれは、この温もりも潤いもない、極限まで乾いた鬼の笑い声を聞くことができるだろうか。
掲句出典:句集『震災句集』