五月五日、神奈川近代文学館にて、きごさい主催のイベント「HAIKU+ 今何が問題か」が開催されました。俳句における批評の復活を目的とされたイベントで、気鋭の俳人四名がそれぞれの立場から問題提起を行ないました。以下は、そのレポートです(季語と歳時記の会のHPには、四名のサマリーも一緒に掲載されています)。
◇西村麒麟「アンソロジーについて」
一人目は、古志の西村麒麟さんによる、アンソロジーについての話でした。アンソロジーには「作品中心のもの」と「鑑賞が中心のもの」とがあり、前者では平井照敏の『現代の俳句』(一九七七年刊、一九九三年に講談社学芸文庫に入る)、後者では山本健吉『現代俳句』(一九五一、五二年刊行、一九九〇年に角川選書に入る)以降、ほぼ四半世紀、これに匹敵するアンソロジーが出ていないと麒麟さんは指摘します。
アンソロジーがないことがなぜ問題なのかというと、身近なアンソロジーがないと、誰もが知っている句が少なくなる。そうすると、俳句の新しさや古さを判断することもできなくなり、類句かどうかもわかりづらくなる。出版不況で本屋も減っており、一般読者が手軽に俳句を読むこともできなくなってしまうというのです。
もちろん、アンソロジーだけ読むことにも問題はあると麒麟さんはいいます。作品中心のアンソロジーは、俳句がたくさん読めるのはいいですが、読者の読解力を超えるものは読み飛ばされてしまう欠点がある。また鑑賞が中心のアンソロジーは、筆者の好き嫌いによる先入観を植えつけられてしまうという欠点がある。しかし、丸谷才一が「詩は詩歌集で読むに限る。駄作や凡作を読まなくて済むから時間を浪費せずにすむ」というように、一般読者が膨大な句を句集で読むには、やはり無理があります。
さらに、麒麟さんの話は、俳人の評価は時代やブームなどで大きく変動することも指摘していて、これから新しいアンソロジーが編まれるとしたら、どんな人が入り、どんな句が入るのか、それを想像するだけでも楽しいと述べていました。これは、同時代の誰よりも俳句を多く読んでいる麒麟さんらしい意見です。
そこで気になるのは、なぜ今誰もが手軽に読める、時代を代表するようなアンソロジーが出ないのか、という問題です。
出版社は、販売数の見込めるもの以外は作りづらくなっています。つまり、売れる見込みがたてづらいものは、後回しになりやすいのです。大結社の代表や、俳人協会や現代俳句協会の中心にいる人であれば、販売数が見込みやすい。しかし、アンソロジーはその性質から、横断的で且つ綜合的なものです。だから出版社の編集者には固定客が見えづらい。もちろん買う側の問題もあるでしょう。所属結社の系譜と関連する人の俳句しか読まなかったり、好きな作家のものしか読まなかったりする。こうしてアンソロジーが力を失っていく過程と、俳句が批評性を失っていく過程とが並行してくるのではないでしょうか。
考えてみれば、それは俳句のアンソロジーに限りません。日本人なら誰もが知っていて、ほとんどの人が読んでいる国民的な作家はもういません。文芸の世界全体が、タコツボ的な個人ファン市場の集合になりつつあります。今や漫画やゲームも同じです。俳句の場合は結社があるので不思議に感じませんが、商業誌よりも小説や漫画は今や同人誌的なコミュニティ市場のほうが、力も勢いもあります。
むしろ、このようなモザイク的な市場で可能な批評とは、どんなものなのかを考えなければならないのかもしれません。麒麟さんは、インターネット上で「きりんの部屋」というアンソロジーを連載していますが、もしかすると、現在における一つの新しい形を実践しているという自負をもって、このような話をしたのかもしれません。
◇鴇田智哉「俳句を、教育的な言葉ではなく、語ろう」
二人目の鴇田智哉さんが主張することは、俳句を結社内に働いている教育的な論理から解放するような、個人の自由な言説が出てこなければならないのではないか、ということでした。
もちろん、結社は先生から俳句を習う場所であり、そこでの教育論理について問題があるというのではなく、結社を超えたコンクールのような場所で、たとえば「この句は季語がないから外そう」といったことが、度々起きます。だから俳人は、結社内にある教育的な言葉ではなく、作家個人としての言葉で語る必要があるのではないかというのです。
この話は、どこか麒麟さんの話とつながっているように思えます。俳句の読者だけでなく、指導的な立場にいる人も自身の所属内の論理、つまり安全圏から出ようとしないということです。
そこで鴇田さんは、俳句の通念としてある「自句自解をしない」という考えを捨てて、むしろ積極的に語るべきではないかといいます。いわば、暗黙の了解で成立しているものを作家個人の言葉で揺るがそうということです。たしかに、それは個々の作家が新たな批評性を獲得していくことにつながるかもしれません。もちろん「自己正当化」という陥穽に落ちないようにしなければなりませんが。
そして、鴇田さんは実際に自身の俳句について語り始めます。鴇田さんは、自分がなぜ俳句をやめずにいるかというと、言葉にポエジーが生じる、その一番小さなところにいられるからだといいます。俳句を詠むのは、詩の起源のようなところに立ち会えるからだというのです。
なかなか難しい話なのですが、鴇田さんはわかりやすく、先生の今井杏太郎さんとの話を紹介してくれました。尾崎放哉の〈咳をしても一人〉という句があるが、「をしても」は表現として甘いという話になり、どうなおすべきかを一緒に考えたそうです。今井杏太郎さんは「この句は〈咳〉だけでいいんだよ」とおっしゃったそうです。しかし、さすがにそれだけでは詩にならない。場合によっては〈咳〉だけで感動を呼ぶこともあるかもしれないが、それは普通ではない。今井杏太郎さんの結着は「咳をしてみる」だったそうで、鴇田さん自身そのとき、言葉が詩となる最小に触れたように感じ、深く納得したそうです。
俳句は詠み手と読み手がいて成り立つものである以上、正気がたもたれていなければなりません。鴇田さんにとって、かろうじて正気をたもちうる最小の装置として、五七五という定型があるといいます。つまり、言葉が詩でありうる最小の型ということです。なので今、鴇田さんにとっては五七五という定型が重要であって、季語の有無は二の次だというのです。つまり、鴇田さんにとって五七五という定型は、俳句を詠むため=詩を詠むための形式になるのだろうと思います。
さらに、鴇田さんは自身が今注目している「中心のない俳句」について語ります。こちらも難しいので、詳細はサマリーを読んでいただきたいのですが、イメージとしては「モビール」と呼ばれる玩具(動く彫刻)のように、どこかに中心があるわけではないのに、いくつかの言葉が重りとしてちょうど釣り合っているような俳句だといいます。具体例として、自身の〈回るほど後ろの見えてくる疾さ〉、赤尾兜子の〈ちびた鐘のまわり跳ねては骨となる魚〉、田島健一さんの〈西日暮里から稲妻見えている健康〉といった句をあげて、その独特の力学で成り立つ句を解説されました。
「中心のない俳句」というとき、一物仕立てが特にそうですが、中心に季語がある俳句というのはわかりやすい。取り合わせを楕円のように中心が二つある俳句とみることもできるでしょう。無季と言われる句でも、季語に代わる言葉が入っている場合は中心があることになる。しかし、鴇田さんはそもそも中心のない俳句の形がありうるということを示されたわけです。
ただし、鴇田さんが言う「中心のない俳句」は、句の形から考えられているものであって、芥川と谷崎の「話のない話論争」に見られるような、内容(意味)に関わることではありません。また、河東碧梧桐が提唱した「無中心論」とも違って、詠み手の作為(意図)を消すというようなこととも異なり、句の構造が問題となっています。さらにいうと、この構造は五七五という定型とは異なる次元にあるように思います。なので、俳句の話なのか、詩の話なのか、よくわからなくなってきますが、日本語による五七五の定型詩の可能性を広げる議論には違いないと思います。
◇阪西敦子「花鳥諷詠の誤算 ふたたび開く他者への視線」
阪西さんは、日本最大の結社であるホトトギスに七歳から所属する俳人です。通念に従えば、有季定型の保守派の中心ということになり、鴇田さんがいう「教育的な論理」をふりかざして俳句を定義する側の人を代表しているように見えてしまいます。
ところが、阪西さんはホトトギスの創始者である虚子自身がいかに批評性を持っていたか、また固定化しがちになる見方に対して警鐘を鳴らしていたかを、虚子自身の言葉を引いて説明します。
例えば、虚子は「花鳥諷詠」について《春夏秋冬四時の移り変りに依って起る自然界の現象、並にそれに伴ふ人事界の現象を諷詠するの謂であります》といっています。昭和十年の『俳句読本』にある言葉です。さらに虚子はそこで、世間ではそこに気の付かない人が多いから、誤解がないように繰り返し述べておかなければならないともいっています。つまり、この時点で既に誤解があったということです。その誤解とは「人間の社会活動を排除している」「古典の世界だけに回帰している」「俳句を縛り現状をとらえてない」といった誤解です。
誤解される理由として、阪西さんは「花鳥」という言葉のイメージ(古くささ)によるところが大きいのではないかといいます。そもそも「花鳥諷詠」は虚子の造語であり、新しい言葉です(昭和三年)。まず、虚子自身が述べているように、本来、花鳥諷詠とは自然界に限らず、人事界のあらゆる事象を諷詠するものであり、人間社会、また現代社会を排除しているわけではありません。だから、命名の失敗があったのではなないかというのです。
たしかに虚子の言葉を読んでみると、阪西さんのいう通り、虚子の「花鳥」とは芭蕉の「乾坤の変」とそう遠いものではないことがわかります。もしかすると、虚子は芭蕉の「乾坤の変は風雅の種なり」という言葉を「花鳥諷詠」という言葉にしただけなのかもしれません。
また、阪西さんは「花鳥諷詠」と混同しやすい言葉として「有季定型」という言葉をとりあげます。「有季定型」とは出来上がった作品についていうものであり、「花鳥諷詠」とは異なります。「諷詠」とはあくまで作句のときの姿勢、方向性を指し示すことだというのです。
例えば〈桐一葉日当たりながら落ちにけり〉という虚子の句でよく知られている「桐一葉」という季語は、周知の通り、淮南子の説山訓にある〈一葉落ちて天下の秋を知る〉から来た言葉です。もちろん季語になっています。しかし、単に秋を指し示すサイン(記号)として句に入っているわけではなく、実際に秋になって落ちてくる目の前の事物それ自体を詠んでいるのだというのです。つまり「桐一葉」は古典をふまえている言葉ではありますが、「諷詠」の世界は目の前の他者の動きだというわけです。
さらに、阪西さんはこうもいいます。自分の思い込みや感情は排除し、時の移ろいのようにもどらないもの、自分の力ではどうにもならないもの、自分が予測し得ないものをこそ俳句に取り込むこと、つまり「小主観」の外部にある他者の動きに則して詠むこと、それが「花鳥諷詠」なのだと。つまり、「花鳥諷詠」とは俳句を定義づけるものではなく、自由さを得る、もっというと、一回性に触れるための姿勢だというのです。
阪西さんが、虚子の言葉を通して言いたいのは、俳句を縛るものは定義や教義ではなくて、実は詠み手の「小主観」だということでしょう。
タイトルで「誤算」といっているのは、虚子が警告を出していたにもかかわらず、実際は警告が無視され、さらには虚子が退けようとしたものに自身がさせられてしまったということです。
たしかに虚子にとって「花鳥」とは「一回性」や「他者性」の象徴であったのかもしれません。しかし、それが失われたとき「花鳥」はたちまち形骸に変わってしまう。鴇田さんが批判されているのは、このように形骸化された花鳥の論理であって、これは虚子の時代から相変わらず議論がすれ違い続けているところではないかと思います。虚子自身がやっていた議論が、未だに続いていることに驚きを感じざるを得ません。
もう一つ、「客観写生」という言葉もあります。阪西さんは、これは「努力目標」だといいます。虚子自身も客観などになりようがないと述べているそうです。いずれにしても、「花鳥諷詠」も「客観写生」も、ホトトギスの俳人の口から、ここまではっきり通念をくつがえす話がされたのは、めずらしいことではないでしょうか。
さらに、麒麟さんの主張とつなげていうと、おそらく虚子が力を入れた「ホトトギス雑詠集」もまた長く一般の人にまで読まれたアンソロジーであったと言えます。虚子は「選は創作である」と述べただけのことはあります。もっというと、虚子はアンソロジーのみならず、俳句の市場を作ったことでも、評価されてもいいように思います。
◇マブソン青眼「今、俳句で表現の自由が問題である」
最後は、マブソン青眼さんによる「表現の自由」についての話です。
マブソンさんは交換留学で宇都宮高校に来て、図書館で芭蕉の英訳を読み、短い言葉なのに自由に物事が詠める俳句に魅了されます。帰国後、パリ大学で日本文学を学び、長野県の国際交流委員となります。仕事の傍ら一茶を研究。そこで、金子兜太さんと出会います。
西欧人から見れば、季語の便利さはわかっていても、例えば〈雪解けて村いっぱいの子どもかな〉という句の「雪解け」と「村いっぱいの子ども」という、本来結びつかないものの取り合わせには驚嘆するそうです。
転機は東日本大震災でした。福島原発事故が起こり、フランス大使館から、いつ蒸気爆発が起きてもおかしくない状況なので、早くフランスに帰ってくださいといわれます。妻子のチケットも用意されていたそうです。帰国すべきかどうか悩んでいるとき、KADOKAWAの雑誌「俳句」から被災地へのエールを送る俳句を依頼されます。マブソンさんはそこで、〈児の頬に遅春のなみだ放射能と〉という俳句を詠みました。
その後、マブソンさんは原発問題で感じたことを句に詠み、SNSなどでも脱原発に関するコメントを発信していきます。すると、俳句総合誌から月一回程度あった原稿依頼はほぼ途絶え、二年のはずの連載も一年半で終了となります。マブソンさんは自嘲的に、自分はそこからクールジャパンを讃える外国人ではなくなってしまったんだといいます。
そこからマブソンさんは「表現の自由」ということを考えるようになり、戦時中、治安維持法の下で起こった俳句弾圧事件について調べていきます。それは京大俳句のメンバーが検挙された事件を始め、戦争批判をおこなった俳人が次々と検挙、拘束され、十三人が懲役刑を受けた事件です。
嶋田青峰は、この事件の犠牲となった俳人の一人です。この碑にも句が刻まれているそうです。元々ホトトギスの虚子門下の俳人でしたが(昭和五年除名)、昭和初期から機関誌「土上」(どじょう)の主宰として、新興俳句運動の中心となっていきます。金子兜太さんは当時、この『土上』に属していて、青峰の指導を受けていたそうです。昭和十六年「『土上』に進歩的思想あり」という理由で検挙。留置所で肺結核を再発し、喀血。「土上」は廃刊。釈放から三年後、昭和十九年に青峰は亡くなります。
マブソンさんは長野県上田市に「俳句弾圧不忘の碑」の建立計画を進めます。金子兜太さんが、この碑の建立の筆頭呼びかけ人となり、国家が表現の自由を奪うことの恐ろしさを一緒に訴えてきました。碑の文字は兜太さんが揮毫。兜太さんは「除幕式には必ずいく」といっていたそうですが、残念ながら二月二〇日に亡くなってしまいました。除幕式はその五日後でした。
不思議なことに、俳句総合誌は一社も取材に来なかったそうです。フランスの新聞「ル・モンド」が取材に来ているのに。マブソンさんは今も同様に、言論の自由が奪われているといいます。しかも、戦時下のように上からの弾圧ではなく、下からの弾圧、つまり自分たちが自分で自由を奪っているのではないかと。
マブソンさんは、碑の隣に整備した「檻の俳句館」をぜひ見に来てほしいと訴えます。事件にあった俳人の作品を紹介するパネルが檻を付けて飾られているのだそうで、見る側の人が檻の内側にいるように思えてくる仕掛けになっているのだそうです。
最後のマブソンさんの話を聞いて、四人とも角度の違いはあれ、自由を奪う制度がどこにあるか、ということを考えさせられる話だったように思えてきました。麒麟さんは「市場原理」、鴇田さんは「教育論理」、阪西さんは「小主観」、そして、マブソンさんは「ファシズム」。
おそらく我々は、見えない言葉の監獄にいるのでしょう。俳句は批評性を持ちうるとしたら、もちろん詩もそうですが、いかにして見えない言葉の監獄から出るか、その外部性をとりもどすかです。言葉の監獄の中にいるときは、そこが監獄であることに気づきません。例えば「時代精神」というものも、事後的に見れば見えてくるでしょうが、そのなかにいるときにはなかなか見えるものではありません。批評とは、言葉の監獄の外部を垣間見せるものです。我々自身を縛っている何かを感知させることを批評とするなら、この四人の作家はそれぞれの立場から、それを実践しようとしていることがわかります。
俳句に批評を取り戻す。なかなか容易なことはないかもしれませんが、今回のイベントは未来に向けて希望の持てるものになったのではないでしょうか。このイベントの続きが期待されます。