おそろしや火の中を吹く秋の風 松瀬青々

九月一日は防災の日です。大正十二年のこの日、午前十一時五十八分、相模湾を震源とする大きな地震があり、同時に火災が発生。日本海側に台風が迫っていた関係で、太平洋側には乾いた秋風が強く吹いていたと聞きます。おかげで、その火は翌日まで燃え続けたそうです。

この句は、関東大震災直後に詠まれました。十四万人とも言われる死者を前に、青々はこう詠んだのです。

関係ないですが、谷崎潤一郎は震災による自宅の焼失を契機に、京都へ移住しています。そのように動ける人はいいですが、どれだけの人が路頭に迷ったことかしれません。震災当時、青々はそもそも関西にいたはずですから、惨状の様子は新聞で知ったのではないかと思います。このとき、青々はこの句のほかに次の二句も詠んでいます。

〈朝顔や世の中こはき方丈記〉
〈長らへて生きてあれかし秋の暮〉

この二句は名句とは言いがたい(あれかしとは「あってほしい」ということです)。ただ、題の一句は、どこか人の手の届かなさを感じさせます。「火災」と「秋の風」の取り合わせるという大胆さも青々らしいとは思いますが、この句は、それだけではすまないものがある。それは、例えば芭蕉の〈五月雨をあつめて早し最上川〉という句などと通じるものがあると思うのです。

青々はこの句の三年前に俳誌のなかでこう書いています。

〈俳句を作るといふ事は、大自然の内在的微妙に触れるべく、それに親しむ道を習う事である。句を作るは手段で、大自然の内在的微妙に触れるのが目的である〉

青々の言葉を借りれば、中七下五の「火の中を吹く秋の風」は「大自然の内在的微妙」であって、事の記述ではないのです。つまり、前書きの「関東大震災」(個別性)の説明(一般化)ではないんです。むしろ、普遍的なものなのです。そう解釈しなければ、逆に前書きの「関東大震災」という固有名性が、際立ってこないのです。つまり、「火の中を吹く秋の風」という出来事を「おそろしや」という一つの「主観」のなかに取り込んでいるのではなく、むしろ「大自然の内在的微妙」に触れたときの人間のありのままの姿、ぎりぎりの姿として出てくる「おそろしや」なのではないかと思うのです。

しかし、関西にいた青々がなぜこんな句が詠めるのか、と思う人もいるかもしれません。まさしく、こういうところで「想像力」の問題が出てくるのだろうと思います。

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