BSのNHKの番組「100年インタビュー」に、金子兜太が出ていた。心に残る言葉がたくさんあったが、あえてひとつ記すなら、この言葉だ。
人間も蛙とおんなじですな。
金子兜太は痛風を患ったそうだが、これはそのときのエピソードから出た言葉だ。痛風は、よく「贅沢病」と言われているが、かならずしもそういうことではないそうだ。プリン体の代謝物である尿酸が増えてしまうことが原因らしい。とにかく、風が吹いただけで痛いというのだから、そうとう痛いのだろう。兜太は、肉を食べるのが好き、酒を飲むのが好き、ときているから、食事制限は非常につらかったはずだ。そのときに詠まれたのが有名な「酒止めようかどの本能と遊ぼうか」という句だ。痛風には緑茶が効くそうで、兜太はがぶがぶと毎日緑茶を腹一杯飲んだのだった。そのとき、何を喰おうが、何を飲もうが、結局胃袋を一杯に満たしていれば同じなんだと悟ったという。それでこの「人間も蛙とおんなじですな」という言葉になるのである。
多少強引だが、これも兜太の「生きもの感覚」ということになるのだろう。
ところで、この句である。実は、先の兜太の言葉を聞いて思い出した句なのだが、これは蛙の句ではないかと思うのである。いや、蛙というよりも、おたまじゃくしといったほうがいいかもしれない。つまり、これは蛙がおたまじゃくしにもどるくらいの眠りであるということだ。そう考えなければ、中七の「両手を捨てて」という言葉は出てくるはずがないのである。
常々、兜太は「両生類」のようだと思っていたが、もはや「のようだ」ではなく、「なのだ」と思うことにする。
ごぶさたしてます。
これ読んでて、思いついたんですが、
こんなのだめですか?
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人間も蛙とおんなじですなという
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ま、これはともあれ
楽しかった句会、懐かしいです。
あれがあって、俳句へのモチベーションが
あがってたんだと思います。
ぼくの場合。
tu-taさん、おひさしぶりです。兜太さんは、敗戦後、俳句はつくらないと心に決めていたそうです。しかし、できてしまうのだというのです。俳句のような「無用」のものではなく、実社会に生きる。戦後民主主義を実践する。そう心に決めていても、俳句はできてしまう。おのれの意を裏切ってまでもでてきてしまう。それで、兜太さんはこう言ってました。
つまり私は俳句なんだな。
なかなかこうまで言える俳人はいないと思いますが、俳句なんぞ作らなくてもいい人は作らなくてもいいんです。無理に理由をこしらえる必要はないということだと思います。