けさもまた今日のはじまり初音して 飴山實

初音とは、その年最初の鶯の鳴き声のことです。まっ先に春の訪れを感じさせるものが、視覚ではなく聴覚に響くものだというのはうなづけます。この句の「けさもまた今日のはじまり」とは、今朝もまたいつもと同じように一日が繰り返されるということでは、もちろんありません。同じような朝であるにもかかわらず、同じ朝などない。新しい朝だけです。新しい朝がきて、新しい一日が始まる。日々、移ろいゆく時間とともに在るということは、繰り返しの同一性ではなく、「差異としての反復」を生きるということです。つまり、今その瞬間に新鮮さを感じているということです。それは、新鮮な驚きを含んだ「初音して」という下五によって、見事に表現されているように思います。この句は飴山實の辞世の句ではないかと勝手に想像したのですが、調べきれておらず分かりません。ただ辞世の句でないにしても、この句にはどこか根底には「死」という観念があるように思えます。

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