ひとひらを家鴨の背に花嵐 飴山實

桜の花はその散り様の美しさから潔く死ぬことの美学に使われることがありますが、万葉学者の中西進によれば、万葉集ではそのような意味は薄く、むしろ桜は「不死」の象徴であったそうです。簡単にいうと、桜は花開くとそのありあまるエネルギーのためにすぐに散り、花びらとなって生き続けるということです。たしかに桜の花びらを浴びて、なにかしらの力を感じた人も多いのではないでしょうか。ある人によると、桜の花粉に人を覚醒させる成分が入っているというのですが、ほんとうかどうか定かではありません。私もただ坂口安吾の「桜の満開の下」のイメージが強烈にあるせいかもしれませんが、いずれにしても、桜の花びらを浴びているとなんだか陽気になってきます。

さてこの句ですが、桜の花が舞う時期、本来であれば鴨は北の国へ帰っているはずですが、傷ついたり、病気をしたりして、長く飛べない鴨は春になっても残っており、残鴨と呼ばれます。もしこの句の中七が<鴨の背なかに>であれば、鴨を元気づけようという心持ちを読み取れるのですが、この句は<家鴨(あひる)の背(せな)に>なので、そのような意味からは外れています。家鴨は帰れなかったわけではなく、そもそもそこにいるわけですから。<鴨の背なかに>であれば、花嵐にひとひら分でも鴨の背に力をあたえてやってほしいという気持ちが素直に伝わってくるし、それはそれで悲哀のある一句になりそうです。しかし、飴山實は「家鴨」とした。その心はどこにあるのか。

思い起こすべきは、そもそも「家鴨」とはどんな生きものなのかということです。家鴨はそもそも家禽化された真鴨の亜種です。どうやって品種改良したのかは知りませんが、卵をとったり、肉食用として古くから人に飼われてきた生きものです。飛行も得意でないので当然長い距離を飛ぶことはできないそうで、大きなお尻をふりふりさせて二足歩行をする姿に愛嬌があります。生命保険会社のキャラクターにもなっていますが、一般的には白いものが有名です。水田の害虫駆除にも一役かっているので、日本に限らず農耕をいとなむ人々の暮らしと密接な生きものです。

つまり、「残鴨」では使い古されたペーソスがあるだけで新鮮さがない。というか、元気が出ないのです。しかし、「家鴨」となると様相ががらっと変わり、句の世界全体が明るくなります。なぜか、笑いの世界に近づいてくる感じがします。つまり、悲劇から喜劇へ転換されるわけです。しかも、ぐっと人々の日常生活に近づいてきます。極端に言えば、われわれの社会というものを、「家鴨」の一語で言い当てているのではないか。だから、この句を読むときは、誰もがこの「家鴨」と同レベルになる必要がある。というか、「家鴨」になるべきだと思うのです。そうしなければ実感として読めないのではないか。つまり、「家鴨」となって「花嵐」に新たな活力を呼び覚まされる。そういう一句だと思うのです。

家鴨の背にひとひらの桜がとまる。われわれはこの家鴨の背のひとひらがあってこそ、その外側に広がる「花嵐」の壮大な時空間をまた感じとることができる。ひとひらに足る人々の生活そのものは、吹けば飛ぶようにあやういものかもしれない。しかし、それを自ら「興じる」ということが人の生というものではないか。桜の花は、そんな生を興じる力をあたえてくれているような気がします。

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