田螺の愚を憐み蝶の痴を愛す 松瀬青々

この句の特徴を一つ指摘したいと思います。それはこの句が「対句」であるということです。つまり、対句はことわざや、とりわけ漢詩によく見られる、二つで一組の韻文形式です。つまり、語呂の近い言葉を対にして並べるわけです。もちろん俳句は漢語の使用は厭わない。むしろ芭蕉も蕪村も積極的に漢語を導入したわけですが、漢詩の対句という形式を俳句の形式のなかに入れるという無謀さは、さすがになかったと思います。そういう意味で、俳句形式特有の「切れ」がなくなってしまった印象を受けざるをえません。碧梧桐と喧嘩をしてまで「切れ字」を死守したという松瀬青々にもこういう句があるので、驚きです。ひょっとすると言文一致というか、私小説的な文としての新鮮さがあったのかもしれません。ただ「写生」というには無理のある句と言わねばならないでしょう。しかし、そう言って捨てさるのは簡単ですが、この句にはどこか捨てにくいもののあるのです。ぶくぶくと泡を吹いてじっとしている田螺の愚かさ。何処にいくのか己にも分からずに不規則に飛んでいく蝶の痴ほうさ。そういうもの自体のありようではなく、そこへかたむけられる心のほうのありようを、回りくどくなく、気持ちよくすぱっと言い切ったところに共感を覚えます。

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