酒好きなら、この句の心はすぐにわかるでしょう。ただたんに、冷酒のグラスの氷がぐらりとまわった、というだけなら句にはなりません。ぐらりとまわっているのは、冷酒の氷のみならず、冷酒を飲んでいる人の酔いがまわるということでもあるし、さらに言えば、この句を読んでいる人の意識もまたそうであるからです。つまり、読み手も一瞬この氷となって、ぐらりとまわってしまう。そういう句だと思うのです。飴山には、このように「見る」のではなく、いうなれば「成る」句が多いのではないかと思います。
ちなみに、この「冷酒」は、焼酎もしくはウヰスキーではないかと思いましたが、やはり日本酒ではないかと思います。原酒に近い地酒などは、オン・ザ・ロックで飲むこともあるそうですし。ロックのほうが飲みやすくなって、逆に酔いが早そうな気もします。
こんにちは。
これは、ひとりで飲んでいるときの俳句かな~と
思いました。
部屋でひとり。ゆったり冷たい日本酒を飲んでいると
こんなカンジで酔いがまわる気がしますね。
ところで、「ゆらり」ではなく「ぐらり」とした効用
についてはどうお考えでしょうか・・?
私は、若干のネガティブな酔いも、この表現に含まれて
いるのかな、と思いましたが。
岩崎さん、おひさしぶりです。句作は続いていますか?たしかに僕もこの句はどちらかといえば、宴の酒よりひとり酒だと思います。ただ「ゆらり」ではなく「ぐらり」なのは、ネガティブな酒だからではないと思いますけど。もし「ゆらり」だとまだ氷を制御できている感じだと思うんです。「ぐらり」とくると、飲み手(自己)の制御を離れて氷(対象)自身が動きだすような感じがすると思うんです。だから氷のみならず、詠み手もそして読み手すらも「ぐらり」とくる。つまり、主客の関係を安定させているフレームを越え出るには、やはり「ぐらり」ではないとならないと思うんです。
コメントありがとうございました。
飲み手の制御を離れる感じは同感です。
良いことも悪いこともあった1日の終わりに、
ついつい、杯が重なっていくイメージ、
それも、高揚感よりも、内省的な感覚が先行して、
「ぐらり」とくるまで飲んでしまったイメージを
受け、若干ネガティブな感情も含むのかな、
と思った次第です。
「これでなければダメ!」という表現を見つけて初めて、
良い句ができるのだとこの句から実感しました。
往々にして、文学にはそういうネガティブな内面のイメージがつきまとってきましたからね。そのようにうけとる人がいるのもわかりますし、自由に詠んでいいところではないかと思います。ただ内面に閉じこもるものではなく、外に開いていくものが俳句でもあると思うので、そのような文学の在り方というところも忘れないようにしたいと思います。いずれにしても、言葉の選び方、使い方、置き方というものが、これほど決定的になる文芸は俳句の他にはないような気がします。