「涅槃」という季語を使って俳句を詠む場合、大きく分けて、涅槃会や涅槃の日を詠む場合と涅槃像や涅槃図を詠む場合とがある。後者では、涅槃像や涅槃図が釈迦入滅の様子を表現しているように、釈迦入滅すなわち涅槃そのものを俳句に詠む場合もある。
その場合、本来「涅槃」といっても誰も見たことがないから、川端茅舎の〈土不蹈ゆたかに涅槃し給へり〉や阿波野青畝の〈一の字に遠目に涅槃したまへる〉のように具体的にディテールを描いて、リアリティを感じさせるのが、普通のアプローチである。
この場合、釈迦入滅そのものではなく、寝釈迦像や涅槃図そのものの説明に落ちてしまうと、句は小さくなる。
例外的なのは、相生垣瓜人の〈目もあやに釈迦が涅槃に入るところ〉ではないだろうか。この句は、直視できないほどであったといって、むしろ具体的なものが見えないことにリアリティを感じさせようとしている。これは、ディテールは見えなくとも、まぶしさを感じるわれわれの目の感覚にかろうじてリアリティをつなぎ止めているといえる。
では、掲句はどうだろうか。
この句に描かれているものは、「太陽と月の間」である。太陽と月の間にあるもの、それは地球であり、地球上にいる存在すべてである。地球上に起こることは、すべて「太陽と月の間」に起こるのだから、どんなものにもあてはまってしまう。
しかし「涅槃せり」ということで、事態は変わる。
涅槃は「釈迦」という固有名と切り離せない出来事である。しかし、これは特殊な出来事ではなく、地球上のあらゆる出来事と変わらず、太陽と月の間に起きたといっているわけだ。仮に涅槃を「死」ではなく「悟り」ととっても同じである。これは釈迦の教えとも響き合うものである。だから、この「涅槃せり」は取り換えがきかない。
また、「日」ではなく「太陽」というところもポイントだろう。例えば〈日と月の間に涅槃し給へり〉といえば、報告にしかならないし、イメージも仏教美術のなかの紋切り型にしか感じられない。つまり、いまここで起きているという感じがなくなってしまう。
この句には対象のディテールも、感覚器官の働きもない。にもかかわらず、リアルに感じられるのは、いまここにいる感覚、つまり地球上のあらゆるものと同等に存在している感覚を呼び起こさせるからだろう。
出典:句集『新年』