この句は、蛙の声を呼んでいるというだけでなく、言葉の連なりとしても聴覚的な句である。上五中七の「KenKonno KoKoni yoKiKoe」と書くとわかるが、K音がリズミカルに配置されている。
聴覚を刺激されるのは、音のせいだけではない。この句を読んで、雨蛙の声が再生されるのは、読み手の耳が開くからである。
なぜ、読み手の耳が開かれるか。ポイントは「ここ」という指示語にある。この句には視覚的なイメージが排除されている。だから「乾坤のここ」といったとき、われわれの視覚的イメージを想起するより先に、耳をすます。
この句は、句集『松島』では、瑞巌寺と前書きされた句の並びに収められており、直前の句に〈雨蛙瑞巌禅寺ひびかせて〉があるから、句集で読むと気づかないかもしれないが、この一句だけ切り出して読むと、あきらかにこの句は視覚的に場所を特定させるものが取り除かれている。だから具体的な何かを耳で探すほかない。
つまり「乾坤のここ」とは、今この句を読んでいるこの場にほかならない。だから、この句を読むたびに、今ここでこの雨蛙の鳴き声が再生されるようになっているのだ。
出典:句集『松島』